日本全国には「日本の中心」「日本の重心」あるいは「日本のへそ」としてアピールしている県が多く存在する。長野県もそのひとつである。ただし、他県との決定的な違いは、長野県では県内の複数の自治体がそれぞれ別々の論拠で地元に碑を設置していることである。 |
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日本全国に対する長野県の位置(図の青部)を見てみると、 視覚的には中心に位置しているように見える。 近隣県(図の灰色部)についても同様で、 西側の岐阜県では「人口重心の地」、 南側の山梨県韮崎市では「日本列島の臍」、 東側の群馬県渋川市では「日本の臍中心標」、 さらに東側の栃木県佐野市では「日本列島中心地」、 などのように中心を示す碑がそれぞれ設置されている。 5年毎の国勢調査で位置が変動する岐阜県の 「日本人口重心」は例外とすれば、 各県とも宣言しているのは一つの県 につき一つの自治体だけである。 |
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これに対し長野県は、実に7つの自治体が名乗りを上げており、設置されている碑の数は、存在が確認できたものだけで9箇所に達する。それらの名称・管理自治体・場所を下図に示してみた。 |
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さらに、県内の以下の地域でも「日本のへそ」として独自の論拠が掲げられている。 (碑の存在については2015年4月現在、確認されていない) ■飯田市 日本の中央値中心(日本の人口分布を2等分する緯度線および経度線の交差地点) ■諏訪湖(諏訪市) 中央構造線と糸魚川静岡構造線との交差地点 ■木曽郡上松町 200カイリ排他的経済水域を含む日本列島の型をベニヤ板で作製し陸地部分は石こうの型を厚さ2〜8センチの4種類作りベニヤ板へ貼付け。4種類それぞれに対して釣り合い実験を行い、得られた4つの重心の中間点。 (信濃毎日新聞の記事より引用) |
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比較のために日本各地で宣言されている”日本の中心(あるいは本州の中心)”をわかる範囲でリストアップしてみた。 《日本各地の日本の中心(あるいは本州の中心)宣言リスト》 ※北海道、九州、四国、県、市区町村など、中小規模の中心は含まず。
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圧倒的に長野県の数が多く、その自治体数は全24中、約半数の10である。 尚、全国へそのまち協議会というものがあり、これは日本各地で「日本のへそ」を地域資源として活用している自治体同士が地域振興に向けて活発的な意見交換などを行うことを目的としている。しかし長野県の場合は、県内だけでも十分に協議会が発足できそうな数である。県全体を挙げて観光資源として活用してみるのも良い気がする。 ≪2020/08/06 改訂≫ 2020年1月に、県歌制定50周年を記念して高ボッチ山頂の諏訪湖を一望する展望台に、県歌「信濃の国」の歌詞が刻まれた石碑(1級基準点「信濃の国の重心」)が設置されている。 2019年12月には、NHKの人気バラエティ番組「チコちゃんに叱られる!」にて認定を受けた辰野町の大城山に「日本の中心の中心 チコちゃんポイント」が設置されている。 (いずれも未訪問) |
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-----------------≪2024/10/14 追記≫-----------------【構造線】 |
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日本領土は弧状列島であり、しかも多くの島嶼が点在しているため、正確に経緯度中心点を求めれば太平洋海上となり、正確に国土重心点を求めれば日本海海上となる。このため、陸上で中心地・重心地を表明するためは独自の理論で定義する必要がある。各地で表明している中心地・重心地は、おそらく自治体などが専門家と相談しながら、その地点ありきの逆算思考で論理構築しているようであり、そのため、結果として島嶼の一部が計算対象から外れているなど、必ずどこかに矛盾が生じている。まじめな観光客はそのような矛盾に気が付けば指摘するかもしれないがマニアにとってはほとんど関係ない。 一方で諏訪湖は、糸魚川静岡構造線と中央構造線とが交差する場所である。糸魚川静岡構造線とは日本本土を西南側(西日本)と東北側(東日本)に分断する大断層で、中央構造線とは九州から関東にかけて地質構造を日本海側(内帯)と太平洋側(外帯)に二分している大断層のことである。諏訪湖は糸魚川静岡構造線の断層運動により地殻が陥没してできた断層湖である。地質学的観点では日本のほぼ中央部となる。 また、身体にはへその左右4cmのところに天枢というツボがあり、下痢・腸炎・肝炎などの治療点となっている。天枢とは身体の天部と地部との境界線、その境界を司る枢要な経穴という意味である。東洋医学ではここを上半身と下半身との境界線としている。また、右半身と左半身の中間線を正中線という。上下の境界線と左右の中間線との交点にへそが存在する。 「諏訪湖は地質学における西日本と東日本との境目に存在する地形の凹み」 「へそは東洋医学における上半身と下半身との境目に位置する腹部の凹み」 両者を対照させれば諏訪湖はまさしく「日本のへそ」になる。 諏訪湖のような観光地なら「日本のへそ」を集客ネタとして活用しても良いと思う。
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-----------------≪2024/11/02 追記≫-----------------【分水嶺】 |
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雨水が異なる方向に流れる境界のことを分水嶺という。その中でも日本列島において太平洋と日本海に分ける分水嶺の連続線のことを中央分水嶺という。日本地図上で中央分水嶺を示すと、図の橙色の線になる。 |
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水色の線は主要な河川を示しており、橙色の線より北側の線は 日本海に流れ込み、南側の線は太平洋に流れ込む。 山岳地帯においては稜線と分水界が一致していることが多い。 北海道北端から九州南端まで総延長約4,500kmとあるが、 正確な距離については情報がない。 |
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地続きが一旦途切れている北海道と九州を除き本州だけを対象にして、中央分水嶺の総延長距離中間地点を推測してみることとした。国土地理院による中央分水嶺のトレース線を引用して分析する。 |
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図に示す橙色の線が中央分水嶺を示す線である。 この画像から地形図を消去し、中央分水嶺のラインを 1ピクセル線にトリミングする。 |
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抜き出した1ピクセル線画像の背景(白色部)を透明処理して、 画像解析ツールにて総ピクセルを算出する。 画像上のピクセル数は距離の相対値として代用できるため、 算出した総ピクセル数が北東側と西南側とで同値で別れる地点を 特定する。 その結果、下図に示す箇所になった。 当然ながら、このような方法での計測は精度は低いので、あくまでも 目安である。 |
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上記で特定した中央分水嶺の総延長距離中間地点と推測される場所の周辺エリアを拡大して確認してみる。 場所は長野県木曽郡になり、分水嶺として周知されている地点としては権兵衛峠と茶臼山との中間あたりになる。 [凡例] 赤線‥中央分水嶺 青線‥河川、青矢印‥水の流れる方向 ○印‥簡易計測による中央分水嶺の中間地点 このエリアの東側に位置する分水嶺は、概ね容易に到達でき、景色が良いところが多い。右上から順に確認していく。 ■高ボッチ山(標高1,665m) 車で山頂近くまで行くことができ、360度の眺望で諏訪湖、八ヶ岳など広範囲に景色が楽しめる。さらにトップ3の富士山、北岳(南アルプス)、奥穂高岳(北アルプス)を一度に見ることができることから、なんと「三大標高に愛を誓うビュースポット」というものまである。塩尻市はやる気満々である。また、2006年に旧山口村が岐阜県に編入される以前はこの山頂付近が長野県領土の重心地であったことから、「信濃の国の重心」の碑も設置されている。 ■東山(標高1429.5m) 高ボッチ山山頂から徒歩で行くことになるが、険しい藪道で眺望も良くないようである。 ■塩尻峠(標高1,012m) 車で通行が可能。岡谷方面の眺めが良く、特に夜景がお勧めである。 ■善知鳥峠(標高889m) 車で通行が可能。峠の頂上付近には分水嶺公園がある。入口には説明板、園内には「旧伊那街道」「善知鳥峠 水の別れ」「善知鳥峠 謡曲善知鳥ゆかりの地」「神戸八郎翁の頌徳碑」などの標柱や石碑があり、さらに湧き水から小さな池に溜まった水が二つの水路に分かれて太平洋側と日本海側に流れていくことを示すモニュメントもある。かつては「善知鳥峠 本州の中心地点」と書かれた表示板も設置されていたが老朽により撤去され現存しない。復活を望む。 ■霧訪山(標高1,305m) 難易度は低く、初心者でも登りやすい山でありながら、山頂からは北アルプス、中央アルプス、南アルプス、御嶽山、八ヶ岳などが一望できる。山頂には「霧訪山山頂一三〇五、四米」の標柱が設置されており、その側面には「日本の中心地 分水嶺」と表記されている。しかし、最近の登山者のブログを見ると老朽化が進み、その文字が見えにくくなっている。いずれ、標柱を建て替えることになると思うがその際には新たな標柱にも現在と同じ表示(日本の中心地 分水嶺)を是非入れてほしい。 ■牛首峠(1,060m) 初期中山道の木曽寄りにある峠で、このあたりは道幅が狭く対向車とのすれ違いが困難。運転に自信のない方には通行はお勧めできない。もっとも対向車と出会う確率自体が低そうではある。かつて人々や物資が往来した街道であるため風情が残る。初期中山道沿いには牛首峠を境にして東側には飯沼川、西側には桜沢川があり、それぞれ太平洋側と日本海側に流れが続いている。 ■坊主岳〜烏帽子岳 このエリアはすべて山林地帯であり、登山道や険しい峠道となっている。このあたりはあまり詳しくないので割愛する。 霧訪山山頂と善知鳥峠にそれぞれ「日本の中心地」「本州の中心地点」の表示が設置されたのは、これまでにもこの周辺が本州の分水嶺全長距離の中間地点付近であることについておおよその見当がついていたのではないかと思われる。今後、正確に分水嶺の中間点が計測された場合に、上図の推測位置に対してどちら側にズレるのかはわからないが、その場所が豊富な登山経験を必要とする山岳地帯や熟練した運転技術を必要とする峠道沿いだったとして、そこに碑や標柱が建てられたとしたら、中心地を探求する人々が遭難したり事故を起こしたりする懸念がある。霧訪山や善知鳥峠であれば無難と思われる。 |
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-----------------≪2024/11/20 追記≫-----------------【塩の道】 |
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道路が整備される以前の古い時代に、塩や海産物を海岸から内陸に運ぶのに使われた運搬路のことを「塩の道」と呼んでいた。海と山とを結ぶ物流の道は日本の各地に存在していたが、特に中部地方に多かったようである。図の青枠で囲った部分が中部地方の「塩の道」である。ここを拡大してみることとする。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
拡大図を以下に示す。 時代とともに経路も終着地も変遷するため、「塩の道」を説明する資料の内容もあまり一定していないが、情報を選択的に取り込み整理すると、下図のようなマップが出来上がる。 大きく分けると6つのルートがあり、日本海側の2つは「北塩(きたしお)」、太平洋側の2つは「南塩(みなみしお)」、富士川経由は「鰍沢塩(かじかざわしお)」、利根川経由は「行徳塩(ぎょうとくしお)」または「江戸塩(えどしお)」と呼ばれていたとの記載がある。 この中で特に有名なのが北側の「千国街道」と南側の「秋葉街道」であり、街道沿いには遺構や道標が多く残されている。 長野県内には塩尻という地名が3つ現存する。通称で、中信塩尻(現・塩尻市)、上田塩尻(現・上田市上塩尻/下塩尻)、栄村塩尻(現・下水内郡栄村堺塩尻)である。 この中でも千国街道の「北塩」と、秋葉街道および伊那街道の「南塩」は中信塩尻(単に塩尻と呼称する場合は中信塩尻を示す)がそれぞれの商人の合流点となっていたことが多くのWebページで説明されている。 また、北国街道の「北塩」と中山道経由の「行徳塩」との合流点が上田塩尻(現・上田市)とされ、善光寺街道西道による塩の運搬終着点が栄村塩尻(現・栄村)とされているが、この2つについては情報が少なく真相は定かではない。 さらに、「塩尻」という地名の由来については諸説があり、上述のように「北塩と南塩との終点にちなむ説」が通説のように思われるがそれを否定する意見もあり、「塩のついた砂を盛り上げた形と似た地形にちなむ説」「強粘土地帯で乾燥時に生じる白い塩垢の多いところにちなむ説」などもある。 |
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塩尻(中信塩尻)について、その周辺領域を確認する。※上図の四角枠で囲われたエリアが下図になる。 南塩の2ルート(茜線と紺線)が合流する地点のすぐ先には「塩尻口留番所跡」があり、その逆側は北塩ルート(赤線)につながっている。この口留番所が検問として機能し、北塩と南塩とが相互に移入されることを規制していた。その理由についても諸説があり、その中でもよく目にする記述は、伊那街道などの整備が進むにつれ南塩の移入が進み越後の塩商人たちが商圏の侵害を恐れており、これに対して松本藩は南塩に移入規制をかけることで北塩に独占販売権を与え、その見返りとして通行税を徴収することで藩の財政確保に充てていたというものである。千国街道沿いには千国番所(現在は復元され資料館となっている)があり、そこで通行税(運上塩)を徴収していたようである。 また、塩の道について検索すると引き合いに出てくるのが「敵に塩を送る」に関する古事である。戦国時代、今川(駿河)・北条(相模)による塩止め(禁輸政策)で困窮していた信玄(信濃・甲斐・上野)が謙信(越後)からの義塩により救済されたというものである。しかし、これは越後の商人により都合よく創作された美談ではないかとも言われている。 歴史研究家による一つの説として、今川・北条は信玄に対する制裁だけが目的でなく、謙信の出方を伺っていたのではないかとの見方があり、謙信は争いを終結させることを考え和解を模索していたため、塩止め(制裁)や高値販売(商戦)などで信玄を刺激することは避け、また無償供与(義塩)では地元商人の反発を招きかねないことから、外交と内政とのバランスを取り正値販売を商人に指示したのではないかとされており、この内容に対しては信憑性の高さを感じる。正値販売なら義塩とは呼ばないが、困窮している状況下において適正価格で供給が行われるのであればそれはとてもありがたいことであり、後になってから話が美しく飾り立てられた可能性はある。 このような戦国時代の遺恨と謝意が後の南塩移入規制に深く関わっていたとは考えにくいが、松本藩が越後の塩商人を懇意にしていた理由の一つにはなっていると思われ、また中信で規制が張られていたことについては飯田藩との確執と関りがありそうである。現代においてもこの地域に住む知人(特に年配者)は、日本海産魚介類の食味を絶賛し太平洋産を露骨に否定する発言をたまに口にする。歴史はどこまでが真実でどこまでが創作なのかはわからないが伝承される内容は少なからず人々の意識に影響を及ぼすようだ。 塩尻口留番所を回避するために南塩が伊那街道から初期中山道に周り、木曽側から中山道を北上しても「本山口番所」で検問を受けることになる。北塩が西街道方面から中山道を木曽方面へまっすぐに南下しても同様である。しっかりと規制線が張られている。 商売は人が集まるところでおこなわれるため、検問に至る手前に位置する最後の宿場が実質的な最終販売所だったのではないかと想像する。伊那街道ルートでは小野宿、秋葉街道ルートでは下諏訪宿、千国街道ルートでは塩尻宿(または本山宿)がそれに該当する。ちなみに関連性はないが下諏訪宿、塩尻宿、小野宿を線でつないでできるトライアングルに囲われた中に「日本土真ん中」の碑が設置されている。また、善知鳥峠より南側には塩尻市大字北小野と辰野町大字小野(通称南小野)があり、かつては一村であったが松本藩と飯田藩との領土争いの結果、二つに分断されている。このうち北小野は松本藩の管轄のため北塩は実際には塩尻口留番所の通過を許され、善知鳥峠を越え北小野まで運ばれ、一方で南塩は松本藩の管轄地域(北小野)に入ることが許されず小野宿(南小野)止まりであったという説明もある。小野宿跡地には「南塩終点の地」の碑が設置されている。 また、塩尻口留番所は分水嶺の善知鳥峠、塩尻峠と距離が近く、本山口留番所も同様に分水嶺の牛首峠と距離が近い。日本海産と太平洋産との「塩の出逢い」と、日本海と太平洋へとそれぞれに流れていく「水の別れ」とが至近距離にあるということは、牛歩(塩や海産物は牛で運んだらしい)においても自然の川の流れにおいても、この地域は陸地の中間地点であることに相違ない。 |
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関連ページ:
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