日本の領土は弧状列島に加え洋上の多くの離島で構成されているため、中心地点は明確にされていない。 国土地理院では領土全体の質量分布として計算された重心地は公表しているが、経緯度については中心地は示されてなく、東西南北端のみが記されているだけである。 このため、実際に中心線を描いて検証してみる。 |
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≪Part1.領土全体の経緯度中心点≫ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国土地理院のホームページによると、日本固有領土の最東西南端は以下のようになっている。
ここで、最東端の南鳥島(153°59′11″)と最西端の与那国島(122°56′01″)との中心線を求める。 ⇒経度中心線:138°27’36.00” 次に、最南端の沖ノ鳥島(20°25′31″)と最北端の択捉島(45°33′26″)との中心線を求める。 ⇒緯度中心線:32°59’28.50” 場所を地図上で確認してみる。 |
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経度中心線と緯度中心線との交点 (138°27’36.00”、32°59’28.50”)は、 静岡県南方の海上になっている。 単純に端点間距離で計算されるため、 遠方洋上の与那国島、沖ノ鳥島、南鳥島 の影響で中心点が本土から離れたところ に位置していることがわかる。 |
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地図を拡大して、その周辺を確認する。 ⇓ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この経度線が本州を縦断する領域を拡大して観察する。 与那国−南鳥島経度中間線(138°27’36.00")、 その端数を切り捨てたキリ番経度線(138°00'00")、 逆に端数を切り上げたキリ番経度線(139°00'00")の 3線を引く。 それら線上には中心を記す標識が数多く存在する。 a周辺‥ 日本中心の標(辰野町) 日本の地理的中心00ポイント(辰野町) 日本土真ん中(塩尻市) 日本の中心地分水嶺(塩尻市/辰野町) b‥日本の真ん中 東経138度展望台(掛川市) c‥日本中央生島足島神社(上田市) d‥日本列島おへそ城(小海町) e‥平面直角座標系第[系原点 日本のおへそ(南牧村) f‥「日本列島の臍」(韮崎市) g‥「日本の臍中心標」(渋川市) h‥本州のへそ(小川村) i‥本洲中央の地(松本市) |
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次は、経緯度中心の海上周辺を拡大観察してみる。 ⇓ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
経緯度中心点の東方115.67kmの位置には八丈島小島、さらにその約10km先には八丈島がある。 八丈小島はかつては2村が置かれた有人島で、最盛期の人口は500人を超えていたが、過疎が 進み昭和44年6月をもって無人化した。 現在では全島民引き上げ時に置き去りにされた家畜のヤギが野生化し繁殖している。 |
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≪Part2.自由往来領土の経緯度中心点≫ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
領土最東西南北端のうち、与那国島を除く3箇所は、立ち入りが業務関係者のみに制限されている。 ・南鳥島(自衛隊、気象庁、港湾保全関係者のみ) ・沖ノ鳥島(港湾工事関係者のみ) ・択捉島(旧島民による墓参のみ) これらを除外して、許可申請なしで往来可能なエリア内のみで、算出すると中心位置がどう変わるかを検証してみる。 |
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自由往来領土の最端部にそれぞれを置き換える。 東京都南鳥島 ⇒ 北海道納沙布岬 東京都沖ノ鳥島 ⇒ 沖縄県波照間島 北海道択捉島 ⇒ 北海道弁天島 (※弁天島へ上陸する場合はチャーター船が必要)
同様に緯度、経度それぞれの中心線とその交点を求めると以下のようになる。 ⇒経度中心線:134゜22'29.80" ⇒緯度中心線:34゜47'17.15" 場所を地図上で確認してみる。 |
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交点(134゜22’29.80”、34゜47’17.15”)は、 今度は陸地に移り兵庫県になっている。 択捉島と弁天島との緯度差はそれほど 大きくはないが、沖ノ鳥島、南鳥島が除外 されたことにより、中心が北西にシフトして いることが明確にわかる。 |
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地図を拡大して、当該地点を詳細確認する。 ⇓ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
自由に往来が可能な領土の経緯度中心 地点は兵庫県内の岡山県寄りにある。 また、その経度線、緯度線それぞれの 端数を切り上げた35のキリ番地点(j)と、 端数を切り捨てた34のキリ番地点(k)には、 いずれも日本の中心を示す記念碑がある。 j‥経緯度交差点標識(日本のへそ) k‥日本列島中心地(ゆめりあ34) |
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さらに拡大して、当該地点を確認する。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山陽新幹線の大津トンネルと赤穂トンネルとの間、 僅かな野外区間となっている箇所の400mほど北側、 赤穂市大津の権現池付近になった。 |
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≪Part3.本土4島の経緯度中心点≫ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
広大な海域に点在する島嶼を一旦除外し、主要4島で中心を算出してみる。 納沙布岬のみを残して、3つを置き換える。 沖縄県与那国島 ⇒ 長崎県神崎鼻 沖縄県波照間島 ⇒ 鹿児島県佐多岬 北海道弁天島 ⇒ 北海道宗谷岬
同様に緯度、経度それぞれの中心線とその交点を求めると以下のようになる。 ⇒経度中心線:137゜41'03.80" ⇒緯度中心線:38゜15'15.50" 場所を地図上で確認してみる。 |
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南西諸島、伊豆諸島/小笠原諸島が除外 されたことの影響が大きく、中心点は北東 に大きくシフトし、本州を越えて日本海海上、 佐渡島の北西に移動した。 |
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地図を拡大して、当該地点を詳細確認する。 ⇓ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
本土4島の経緯度中心点は、海上である。 これに対して、北海道最北端と九州最南端 から同距離でかつ、日本海、太平洋からも 同距離となる地点( 図のl )が特定されており、 そこには石碑が設置されている。 経度中心線が本州を縦断した太平洋側沿岸 (図のm)にも、標柱がある。 l ‥日本列島中心の地(佐野市) m‥日本のどまんなか(湖西市) |
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さらに地図を拡大して、中心地点から最も接近した陸地を確認する。 ⇓ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
最も近い陸地は、尖閣湾の大崎鼻 付近であった。 概ね52kmほどの距離になる。 |
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≪Part4.本州の経緯度中心点≫ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今度は本州のみで中心を算出してみる。 4端全てを置き換える。
これまでと同様に緯度、経度それぞれの中心線とその交点を求めると以下のようになる。 ⇒経度中心線は136゜27'58.85" ⇒緯度中心線は37゜29'23.00" 場所を地図上で確認してみる。 |
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今度は能登半島の西側に移動した。 本州の経緯度中心点も海上である。 |
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地図を拡大して、当該地点を詳細確認する。 ⇓ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
海上の中心点に対して本州内陸では、 ・測量会社の調査で特定された本州の重心地(h)、 ・街道が交わる古くからの交通の要所(i) ・国土地理院の算出による本州内陸最奥地(n)、 があり、それぞれに木柱、石柱、標柱などが 設置されている。 h‥本州のへそ(本州の重心地点) i ‥本洲中央の地 n‥日本で海岸線から一番遠い地点 |
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さらに地図を拡大して、中心点から最も距離の近い陸地を確認する。 ⇓ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近くの海域には、七ツ島(無人島)、 舳倉島(有人島)などの離島がある が、能登半島のほうが近い距離に あり、最も接近しているのは皆月湾 の小崎付近で、距離にして約29km である。 |
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≪Part5.日本の国土重心点≫ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国土地理院が公表している国土全体の質量分布から計算された重心点の位置と、最も近い陸地を確認してみる。
場所を地図上で確認してみる。 |
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一般的に知られている通り、能登半島 先端部に近い海上に国土重心が存在する。 偶然ながらも、 経度は本土4島経緯度中心の値に近く、 緯度は本州経緯度中心の値に近い。 また、図のo領域には、5年毎に行われる 国勢調査の結果に基づいて総務省統計局 から発表される人口重心地に関する看板、 記念碑等が各地点毎に設置されている。 尚、人口重心は国土重心より南南西の位置 で推移し、年々、東京寄りに移動している。 |
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さらに地図を拡大して、最接近陸地を確認する。 ⇓ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
最も近い陸地は、長手崎付近と思われる。 尚、図のp地点とq地点には石碑と標柱が設置されている。 p‥日本列島ここが中心 q‥ここが日本の重心地 |
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≪Part6.「日本中央の碑」の領土想定範囲 ≫ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
青森県に伝説が残る「日本中央の碑」が想定していた範囲について、検証してみる。 日本中央の碑とは、坂上田村麻呂あるいは文室綿麻呂により「日本中央」という文字が刻まれたとされる遺跡である。 この時代に日本の中央が陸奥に存在した理由については、千島列島(クリル諸島)を日本の領土とみなしてこの地を中央と確定したという旨の文が、平安時代末期の歌人(藤原顕昭)により残されており、それが根拠とされている。。 千島列島が含まれるなら北側においては樺太島(現在のサハリン)も同様に含まれると考えることができるが、当時どこまで考えられていたかはわからない。このため、あくまでも歌学書の記述に忠実に千島列島のみで最東端/最北端を考えた場合と、最北端は樺太島も含めて考えた場合の両方で検証する。 日本中央の碑発見地を中心として、占守島(千島列島)最東端の東経、樺太島最北端の北緯、阿頼度島(千島列島)最北端の北緯から位置差分を計算して、逆側に同じ距離になる北緯線、東経線を引き、枠を描画する。
占守島小泊崎、樺太島鵞小門岬、阿頼度島最北埼から日本中央の碑発見地まで、それぞれ経度差、緯度差を求め、その東経差分値を中央から西側に、北緯差分値を中央から南側にシフトさせて枠を描くと以下のようになる。 ⇒東経125°49′32.79" ⇒北緯 27°10′35.14" (樺太島で考えた場合) ⇒北緯 30°40′35.14" (阿頼度島で考えた場合) 場所を地図上で確認してみる。 |
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【千島列島の阿頼度島を最北端とした場合(緯度枠点線)】 鹿児島県の種子島を分断する緯度が境界となり、屋久島以南 の南西諸島と伊豆鳥島以南の南方諸島が枠外となる。 このため、北側の領土が千島列島までとみなされていた場合、 南側は実質、九州本島までとされ南側の島嶼はほとんど想定 されていなかったことになる。 【樺太島を最北端とした場合(緯度枠実線)】 南西諸島では鹿児島県(薩南諸島)の沖永良部島と与論島 との間が境界となり、与論島以南に位置する琉球諸島の ほとんどが枠外になった。 南方諸島では小笠原諸島の嫁島と父島との間が境界となり、 父島列島、母島列島、火山列島(硫黄列島)が枠外となった。 琉球王国(1429年〜1879年)成立以前、13世紀ごろまでは、 奄美は日本の影響下と見なされ、沖縄に対しては認識が薄か ったとも言われている。小笠原諸島においては存在が認識され 始めたのが16世紀以降のことである。 そして、坂上田村麻呂および文室綿麻呂が8世紀〜9世紀、 藤原顕昭が12世紀から13世紀ごろの人物であることから、 琉球諸島、小笠原諸島に対する領土認識がなく、それに加えて 北側の領土が樺太島を含めて考えられていたとするなら、 南側の境界については妥当と思える。 |
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しかしながら、これはあくまでも現代にあてはめた場合に過ぎない。 緯度経度の概念は古代から存在していたともいわれているが、少なくとも8〜9世紀当時の日本にはなかったと思われる。 このため、緯度経度で検証することはあまり意味を持たないため、今度は距離で考えてみる。 「日本中央の碑発見地」と千島列島先端の占守島小泊崎までの直線距離を計測すると、1,626.243666kmである。 (国土地理院の計算ツールを使用) 「日本中央の碑発見地」を中心として半径1,626.243666kmの円を描くと以下のようになる。 ⇓ |
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一般的な地図は、球体(地球)を平面(地図)に 投影して作られているため、球体面上で真円で あっても、地図上では偏円になる。 また、緯度間距離、経度間距離は位置によって 一定でない。 このため、広大な領域の場合、距離には十分に 注意を払う必要がある。 距離が同一であることを確認しながら円を描くと このようになる。 円の中には、樺太島を含め、北側においては かつての日本領はすべて収まっている。 南側は吐噶喇列島を分断する形で、諏訪之瀬島 と悪石島との間を円周が通過している。 奄美諸島、沖縄諸島、先島諸島など全てが枠外 となっている。 しかし、九州本土まではしっかりと収まっている。 |
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しかし、8〜9世紀の時代に現代のような正確な地図が描けるはずがない。 日本最古の日本地図は奈良時代の僧侶・行基(668年-749年)により作成され、その後、805年に京都の下鴨神社に納められた行基図とされている。 初期のものは現存していないが、それを踏襲した1656年の地図は現存している。 ⇓ |
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≪行基図(1656年)≫ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
現存するする最古の地図を 縦置きにして、さらにわかり やすく、現在の地名等を記入 してみた。 現在とは地形が大きく異なっ ているだけでなく、千島列島 どころか北海道さえも描かれ ていない。 この時代に日本の中央を特定 するのはかなり困難であり、もし、 それを行ったとしてもかなり 大雑把なものになると思う。 その中で特徴的なのは、上部に 位置する現在の東北地方であり、 津軽大里、夷地陸奥、出羽の3つ に区分けされおり、地図全体に占 める面積の割合が多い。 この領域は特別に扱われていたよう にも見える。 「日本中央の碑」は、千島列島を 含む領土全域で中央を定めていると いう伝承もあるが、実際にはこの領域 (現在の東北地方)の中央を意味 していたのではないか、という意見 もあるようだ。 この原図となる初期のものが下鴨神社に 納められたのは805年のことであり、その当時、 田村麻呂(758年-811年)は47歳(没6年前)、 綿麻呂(765年-823年)は40歳(没18年前) である。 綿麻呂が陸奥に進撃したのは811年のことなの で初期のものは確認している可能性はある。 |
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≪Part7.日本列島の中間点(独自理論)≫ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本列島という名称は日本国土を示すことが慣例になりつつあるがこれは誤りで、本来は列島の名称で領土の帰属とは関係なく地質学的に列状に連なる島々のこと示す。狭義の解釈では日本の主要4島だけを示し、広義では樺太、台湾までを含む場合もある。一般的には、千島列島先端から北海道、本州、四国、九州を経て南西諸島末端までを示すことが多い。 地図で示すと下図の通りである。 |
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上述したように、通常、日本列島と言えばカムチャッカ 半島と台湾に挟まれた弧状の島々を示す。このなかで 千島列島の北部(北千島)は現在では日本に属さない。 南部(南千島)は政府見解として日本固有の領土である。 日本に属する範囲で中心を求めてみることにして、 日本領土範囲の南千島北東端の択捉島カモイワッカ岬 から南西諸島西南端の与那国島西崎とを単純に直線で 結んだ場合の経度緯度中心地点を確認する。 地質学的な意味としての日本列島に観点を置いているため、 沖ノ鳥島、南鳥島、伊豆諸島、小笠原諸島、大東諸島など の太平洋上の島嶼はここでは考慮しない。 |
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北東端と西南端の2点に対する中間点を、経緯度で算出した場合と、地表面距離で算出した場合と、二通りで考えてみる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
<Part7-(1). 経緯度の中間点> 最初に、2点の経緯度の2等分線を引き、交わるところを特定する。
⇒経度の中間線は135°50’34.50” ⇒緯度の中間線は35°00’12.00” 場所を地図上で確認してみる。 |
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その場所は近畿地方の京都府と 滋賀県との境界付近になっている。 |
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当該位置を拡大する。 ⇓ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
滋賀県大津市藤尾奥町にその中心地点があり、 小関越えの道(旧道)のすぐ近くである。 比較的交通の便が良さそうなところである。 |
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<Part7-(2).距離の中間点> 次は経度緯度の数値ではなく、距離の中間地点を確認してみる。 地球は球体であるため、経度緯度と地表面距離との比例相関がない。 |
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この結果、前述の中間地点は択捉島から1601.8km、 与那国島から1708.3kmとなり、約100kmの差が生じた。 経度の差、緯度の差が同じでも地表面での距離は異なる。 縦横の距離も、同じ経度差の距離が北緯によって、 1006.9km、1177.6km、1308.5kmとなり、同じ緯度差 の距離が北緯によって1171.9km、1169.9kmとなっている。 |
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それでは次に、与那国島西崎と択捉島カモイワッカ岬との2点間最短距離の中間地点を求める。 ⇓ |
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国土地理院の測量計算サイトを使用して、 択捉島カモイワッカ岬と与那国島西崎との 距離を求めたところ、3294.017820kmと算出 された。それぞれの地点からその半値である 1647.008910kmの距離となる同一地点を求め たところ、その場所は山陰の鳥取付近になった。 |
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次は当該位置を拡大して詳細位置を確認する。 ⇓ |
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北千島を除く日本列島の中間地点(距離等分)は、 鳥取県沖の海上にあり、最も近い陸地は鳥取港 と思われる。その距離は約16.9kmである。 有名な観光地である鳥取砂丘にも近い。 |
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以上で一通りの検証が終了した。最期に全てを一覧表でまとめてみる。
多くの場合、当該地点は海上にある。その中で2か所だけ内陸に位置しており、そこはあまり人通りの多くない場所のようである。 |
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以上でおわり |
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関連ページ: 日本の最端部収束点 長野県内「日本の中心リスト」 日本の最端/日本の中心/経緯度交点へ戻る |